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師家禅語録
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師家禅語録
機関誌「禅味」、その他より抜粋した、釈迦牟尼会師家の禅語録です。
2005-4-1 掲載 ・ 自己究明 [苧坂光龍]
・ 無位の真人 [苧坂光龍]
・ 坐禅とは [無門龍善]
・ 坐禅の動機と決心 [無門龍善]
自己究明
「お富士さん、霞の衣脱がしゃんせ、玉の肌えが見とうござんす」
という白隠禅師の歌がある。 これは富士山にちなんで、本当は「自分自信の真面目を見たい」ということである。 自分の姿を鏡や写真で表面的に見ることはできるが、自己の真実の姿は、心のアカや身のアカが積っていてなかなかその真の姿を見届けることが難しい。 そこで我々は白隠禅師の言う如く、坐禅によって自分の真相に目覚めようとするのである。
苧坂光龍
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無位の真人
人間、収入の多寡や地位、身分の高低で価値が決められるものではない。 男女の性別、顔の美醜も問題ではない。真実の人間には心一つで誰にでもなれる。
それに気付かず自縄自縛して不自由な生活をしているのが凡夫であり、自己の真面目を自覚して自由に全能力を発揮するのが真人すなわち仏である。
人は皆仏の素質を持ちながら迷うているのが現実である。禅の使命は迷える人をして、その本来具えている真実性を冷暖自知せしめるところにある。
苧坂光龍
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坐禅とは
禅はすぐれた思想に裏付けられているが、単なる思想ではなく、苦悩克服の仏の教えをわが身において体現する実践の道である。
そのために、きわめて重要な手段として、坐って心身一体となって行じる坐禅がある。
禅は行(行動)・住(暮らし)・坐(坐り)・臥(眠り)の日常生活のいずれを問わない。行動する時も、坐禅中もサマーデイ(三昧)の境界を必要とするものである。サマーデイには、そのうちで特に坐から入るのが経験上いろいろな利点を持っていることが分っている。
無門龍善
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坐禅の動機と決心
昔の人は、人生の無常や地獄の恐怖を逃れるために仏教の道に入った。現代の人々には、また現代の無常や地獄がある。それは科学の進歩がもたらした、利益追求のための大量生産の競争社会における家族、教育、職場などの人間関係のひずみによる苦悩である。それは人心の荒廃、落ちこぼれの失意、嫁姑、老人問題、心身の病の苦しみ、男女の情愛、失恋、離婚の悩みなど数え上げればきりがない。
仏教はしかし、これら新しくて古い人間の苦悩の根源を見定め、その苦悩を救うために説かれた教えである。だから、ひとえに仏教を信じて帰依し、釈尊のやられたように坐禅を行じることによって現代の苦悩を超克し、平安にして充実した生活を迎えることが切望される。
無門龍善
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